「絶対正しい」のなれの果て

これまで宗教は、人々が精神的に安定するよう、精神的支柱を提供してきました。
「世界とはこういうものである、あなたはその中でこういう位置づけである、だからあなたはこう生きるべきである」
人々はそれを聞いて安心し、なすべきことを見つけ、マジメに取り組むことができました。

ところがたいがいの宗教は、大きな間違いを繰り返しています。
「我々の教えは絶対正しい、間違いなど一つもない」と断言してしまうことです。

自分が絶対正しく、無謬である(間違いがない)と信じ込めば、当然無理が出てきます。
限りある人の身で、完璧などあり得ないのに、自分の行動の正しさを信じ込めば、自分のイメージと実像のズレが、様々な問題を引き起こします。
正しいと信じ込んでいますから、行動前の慎重さが足りません。
結果として間違っていたとしても、反省しません。
間違いが間違いを呼んでさらにエスカレートしていきます。
ついには周囲の理解が得られなくなり、悲劇のヒロインのような心理になってくると、殉教者のような悲壮な決意を抱くようになり、よけいに自分の考えにしがみつくようになります。

しかし、「もしかしたら、私が間違っているのだろうか?」という苦い思いが蓄積し、やがて自分のやってきたことを全面否定しなければならないところに追いつめられると、強い悔恨にもがき苦しみます。
あまりに強く後悔するものですから、何もかもを十把一絡げにして全否定したくなる気持ちになります。
そして、もう何も信じたくなくなり、何もかもを皮肉な目で見る懐疑主義者になってしまったり、遊興に我を忘れる享楽主義になったりと、極端から極端に振れることがあります。
 #「大義の末」城山三郎

これと似たことが、敗戦を機に日本で起きました。
神国日本、絶対勝利を信じていたのに、惨めな敗北と占領、飢え死にしかねない困窮。
理想と現実がかけ離れていた軍国主義に対する強い恨み、それを信じてきた自分への怒りが、戦前の全否定へとつながりました。
特に否定する必要もない、罪のない伝統や文化、慣習といったものまで「封建的、迷信、陋習」として全否定されました。
ただ信じられるのは理論とお金。
合理主義(懐疑主義)と資本主義(享楽主義)が軍国主義に置き換わる形で、戦後の日本人の心を捉えました。
「絶対正しい」と信じることで、皮肉なことに「何も信じない」状態を生んでしまったといえます。
すべては相対的。絶対などない、正しいものなど何もない、人さえ殺しても悪くない・・・虚無主義の生みの親は、実は「絶対正しい」なのではないか。
そう思われてなりません。