精神的支柱の恐ろしさ

精神的支柱を人々に提供する役割は、ほとんどの場合、宗教が果たしてきたといえます。

「あなたを包むこの世界は、こういう成り立ちをしている。その中であなたはこういう位置づけにある。あなたのなすべきことはこうである。」

つまり、宗教はその信者に世界観、人生観、使命感の三つを与える機能を果たしてきたといえるでしょう。
現在も、世界のほとんどの地域で宗教が息づき、人々に精神的支柱を提供し続けています。
欧米ではキリスト教が、中東ではイスラム教が、インドではヒンズー教が世界を説き、人生を語り、使命感を与えます。
人々はそれによって迷いを脱し、己の進むべき道を見出し、ある人は勇敢に、ある人は地道に人生を歩み始めます。

人は精神的支柱を得ることで迷うことがなくなり、確信を持って行動することができるようになります。
迷いがありませんから、行動力も発揮されます。
ところが皮肉なことに、このことがかえって、その人の凶暴性を引き出し、結果として精神をズタズタに引き裂くことがあります。

その好例が、キリスト教が絶頂を迎えていた中世の十字軍です。
西欧の人々はキリスト教の与える世界観を信じ込んでいました。
キリスト教は素晴らしい宗教、それを信じる自分たちはより優れた種族、それを信じようとしないユダヤ教徒イスラム教徒は悪魔のような存在である・・・。
エルサレムになだれ込んだ十字軍兵士は、くるぶしが血の池につかるまで異教徒の虐殺を重ねたといわれています。
自らの精神的支柱に、絶対的な信念があったからこそです。

確信に満ちた精神的支柱を持ってしまうと、自らの行動に疑いを持たないため、人はかくまで凶暴になりうるのか、と思われるほどの凶暴性を示すことがあります。
精神的支柱を提供することの恐ろしさは、ここにあります。
安易に精神的支柱を提供することを考えてはならないのは、このためです。