天下り

驚くべきことに、年配の公務員の中には、どうして天下りがいけないのか、本気で理解できない人がいるらしい。
自分のためではなく、業界全体のための奉公であって、これまでずっと続いてきた「伝統」を、どうして今になってこれほど批判されるのか、分からないといった様子である。
恐らくこの人達は、ウラヤマシイから批判するのだ、というくらいにしか理解できないのであろう。
「裸の王様」もここまで来ると噴飯ものである。

天下りの契機は、渋沢栄一に始まる。
といっても、渋沢の時代に現在の腐敗した天下りを連想することは難しい。

明治時代の日本は、西洋に習って近代化を急速に進める必要があった。
しかし、西洋の事情を知らない一般国民が、鉄道や銀行の必要があると考えるはずもない。
西欧のモデルをよく知る者が業界そのものを創始する必要があったのだ。
渋沢は銀行を設立し、紡績工場を立ち上げるなど、日本にそもそも存在しなかった産業を次々と立ち上げた。
モデルさえあれば民間もそれを真似することは難しくない。
こうして次々に民営の銀行が設立され、紡績工場が林立し、日本の産業を瞬く間に近代化させることに成功した。
 #民といっても華族の経営が多かったことは差し引かなければならないが、倒産が多く資産を失うケースも少なくなく、今の日本のように過保護なことはなかった。
渋沢は、自ら民の中に飛び込み、国造りに必要な新産業を生み出す創始者、つまりベンチャー的な役回りを果たしてきたのだ。
政府自身が国民に範をたれなければならない時代であったからこそ、渋沢のような人物が必要であった。
また、産業が立ち上がった後も、近代化したばかりでヨチヨチ歩きの日本の産業を増強するには、天下った官僚達が率先推挽する必要があった。
ここから、天下りは始まっていく。

しかし、今の日本の民間産業は、政府の能力を超えるほどに成長した。
トヨタなどの大企業は、国家レベルの規模を誇る経済力を持つに至った。
政府に手取り足取り面倒見てもらう必要は、もはやどこにもないのだ。
なのに、天下りの仕組みはそのまま残っている。
業界を創造・発展させるためではなく、既存の利益を「滞りなく」配分する役回りとして、である。
天下りは変質し、腐敗臭が漂うに至っている。
渋沢が自ら民間の中に身を投じ、産業を育成しようと粉骨砕身した清新さはもはや失われた。
単に、業界全体に利益を配分する「公平な(?)裁定者」として多額の給料をもらっているに過ぎない。
渋沢の創造性は失われ、賄賂性が高まっている。

官が国を先導しなければならない必要は失われたのだ。
それを自覚できないとするなら、その人は「裸の王様」そのものといわなければならない。
裸の王様は、これまで通り素晴らしい衣服を購入することで衣料業界を育成しているつもりであったのだろうが、目に見えず触れることもできない服を極上と偽って金をせしめる業者は詐欺師そのものであり、その詐欺師に国民のカネを渡す王様は、愚劣きわまることは誰の目にも明らかだろう。
しかし、次世代の子供から「王様はハダカだ」といわれるまでそのことに気付かないのだとしたら、もはや見識が疑われる。
せめて次世代から指摘を受けて恥ずかしくなった王様くらいの謙虚さは欲しいものだ。