共に生きるために

私たちは未来に、何を思い描けばよいでしょうか?私たちは何を心にとどめなければならないのでしょうか?社会はますます加速度的に変容し、それに私たちは後追いしていかなければならないようになっています。

「共に生きる」ために、私たちは何をしていかなければならいのか。それを考えようというページです。

はじめに

これまでの発言

書籍紹介 (2000.11.3 new)

雑文

豆知識

川崎病患者増加

ShinShinohara2007-10-02

日本経済新聞2007年10月2日夕刊より。

「患者の一部に心臓障害が残る原因不明の小児疾患「川崎病」の新たな患者が2005,2006年の2年連続で1万人を突破したことが二日までに、厚生労働省の研究班の調査で分かった。大流行した1980年代の2年を除き、患者が1万人を超えたのははじめて。研究班の中村好一自治医大教授は「患者は急増傾向にあり、原因究明を急ぐとともに患者発生の監視体制強化が急務」としている。」

・・・グラフは、人口1000人あたりの川崎病患者の数を計算することで、少子化の影響を考慮したものです。
過去には82年、86年だけ突発的に患者が増加したことがありましたが、今回の増加はそれに匹敵する数で、ますます増加する勢いです。

川崎病は何らかの病原体があると推定されていますが、いまだ原因が不明の病気です。
現在は血液製剤の大量投与という治療法があるおかげで、致死率は高くありませんが患者の3−7%に心臓の後遺症が残ることがあり、子どもの後天性心臓病の原因のトップになっているとのことです。

国を滅ぼす気か?文科省!

阿部首相のクソッタレな思いつきに従順に従って、文科省は国を滅ぼすつもりであろうか。
このままでは、バウチャー制度は日本を滅ぼす最悪の元凶になるだろう。
教育に競争原理を導入する?巧言で国民をたぶらかす、その隠れた魂胆が許せない・・・!

バウチャー制度は教育のための改革ではない。
財務省文科省のための改革になるだろう。
財務省のためとは、学校と教員を減らし、財政負担を減らそうとの不純な動機の故である。
文科省のためとは、口うるさい国民を消費者に解体し無力化して、権力を自らに集中させようという醜悪きわまりない動機の故である。
この二省の思惑が背景にある限り、バウチャー制度が狙いとしているところはことごとく外れ、最悪の惨禍を国民にもたらすことだろう。

バウチャー制度は「クローズアップ現代」(NHK)でも指摘されたように、そして文藝春秋12月号の陰山氏も発言しているように、地域を解体し、国民を消費者に解体してしまうだろう。
うまくいく学校はなるほど、うまくいく。
あそこはよい学校だ、という噂が噂を呼び、ますますよい生徒が集まるようになるだろう。
その結果、その学校に子どもを通わせようという親たちがその地域に殺到し、地価は高騰する。
元からその地域に住む人は別として、貧しい家庭の子どもは、あまりの地価の高騰にその学校の近くに住むこともできず、かといって遠方から通おうにもあまりに遠すぎ、親はパートなどで時間がとれずに送り迎えもできるはずもなく、その学校に通うのを断念せざるを得なくなる。
貧しい家庭の子どもは、嫌でも不人気校に通わざるを得ない。
悪い噂を立てられた学校は噂が噂を呼んでますます子どもが減っていく。
その学校の周りの地域は次第に治安が悪くなり、治安の悪さが学校の不人気にますます拍車をかけ、ついには廃校に追いやられよう。
バウチャー制度の「狙い」通り、「勝ち組地域」と「負け組地域」が生まれるという競争原理が働き、富むものはますますよい教育を施し、貧しいものはよい教育を施したくてもできなくなるだろう。
その状況に眉をひそめる人がいたとしても、我が子のことを考えれば、なりふり構っていられない。
我が子のために独善的といわれようと、よい学校に入れようとするだろう。
すなわち、地域の人々は、「消費者」に解体される。
「消費者」は自らの欲求を満たすために動く烏合の衆となる。
個人にバラバラに解体した人間はまとまりに欠く。
文科省にたてつくことのできる勢力は失われ、「よい学校」を束ねるだけで権力を掌握できるのである。
何ともすばらしいアイディアではないか。
国を滅ぼし、貧しい人々を抑圧し、自らの権力欲を満たすという、典型的な「勝ち組」として文科省自ら範を垂れようというのである。
・・・笑止千万・・・!

文科省の心ある人よ、私の言わんとしていることは、あなたには分かるはずである。
国を滅ぼすこの企てを、なんとしても止めねばならぬ。
叫んでくれ、声を出してくれ、この国を滅ぼす気か!と。

財務省の心ある人よ、あなたにも私の言うことが分かるはずである。
財政をただすことは重要だ、しかしバウチャー制度はこの国の唯一の資源である「人的資源」を枯渇させる最悪の政策となるだろう。
こんな政策にゴーサインを出してはならない。
叫べ、叫べ、叫べ!
この国を滅ぼしてはならない!

火中の栗

2,3年前になる。ある民主党議員に「本当は今のようなタイミングで、政権を取りたくはないのでしょう?」と尋ねたところ、腕組みして考え込んだ。しばしの沈黙後、「政権を取る機会があるなら、逃げないつもりだ」と答えが返ってきた。
事態を正確に理解した、明敏な答えだと思った。と同時に、不安も抱いた。

現在の日本において、本気で改革に取り組むつもりで政権を取るということは、火中の栗を拾うに等しい行為であり、自殺行為である。その議員は、日本のためならあえて民主党が滅ぶことも厭わない、と言ったことになる。潔いと思う反面、「崩壊後の日本に、どう責任を取るつもりだ?」という無責任さもいささか感じざるを得なかった。

橋本政権以後、本気で改革に臨むということは、自殺を意味してきた。
本気で改革すれば、国民から憎悪の的となり、政権を滑り落ちることになるからだ。
小泉政権がこれほど長期政権でいられたのは、改革に本気でなかったからである。
郵政改革など、些事である。海に浮かぶ小舟のようなものだ。
些事に一所懸命なフリをしていたのだから、本気どころかふざけている。
もし本当に本気だったというのなら、暗愚と言わざるを得ない。

・・・小泉カイカクが歪(いびつ)になり出したあたりから考えていたことがある。「もし自民党の立場に立つなら」・・・たとえ一時政権を降りることになっても「本当の改革」は他の党に任せてしまうだろう。「本当の改革」をすれば日本の経済と社会は大混乱に陥り、国民からは恨まれ、結果としてその政党はバラバラに崩壊し回復不能になる恐れが高いからだ。だから、年金や道路公団、郵政改革のような隔靴掻痒(かっかそうよう)の「中途半端な改革」でカイカクするフリをし、お茶を濁しながら時間をつぶす方がよい。機を見て「思うように改革が進まない」といってサジを投げ、政権を降りてしまえばいい。そして他の党に政権を取らせて喜ばせておきながら、「本当の改革」をせざるを得ないよう袋小路に追いつめてしまう。改革の結果、日本の経済・社会が大混乱に陥れば、その責任を当の政権党に押しつけて滅亡に追いやり、おもむろに政権にカムバックすればよい。そうすれば改革の傷を受けずに済み、その果実だけを味わいながら「次の時代」を支配することができる。「もし自民党の立場に立つなら」、今、政権を失うことはそれほど悪いことではない。

・・・民主党はピエロを買って出る覚悟が本当にあるのだろうか?
「本当の改革」は日本の将来のために、どうしても必要なことである。
しかし、それを実践した政党は、かなりの確率で崩壊する恐れがある。
そんなピエロを演じる覚悟が、本当にあるというのだろうか?

もしその覚悟があるのだとしたら、「改革後」をどう考えているのか。
改革は残念ながら、「よりよい将来」を保証してくれるものではない。
改革は必須だが、単に、今までたまりにたまった過去の問題を掃除するだけに終わる。未来に貢献する機会は与えられない。ただ、過去と心中するのみである。
改革後、日本の将来図を描くことになるのは、改革後に政権を握った政党である。
その政権が悪質であれば、日本の将来は暗いものになる。
改革だけでは足りないのだ。改革は前提でしかない。改革後に良識ある政権が誕生することが是非とも必要なのだ。
私は、改革後に良識ある政権が誕生することを切望している。
逆にいえば、改革後に悪質な政権が誕生することを最も恐れている。

日本をここまで追いつめた責任は、長く政権にあった自民党にある。
本来なら、自民党が尻ぬぐいをすべきであろう。
ところが民主党は野党の立場にありながら「本当の改革」を恐れ、自民党に迫ることもせず、年金や道路公団、郵政改革など、自民党のお芝居におつきあいした。
その意味で、民主党も責任を免れない。
仮に民主党がこの選挙後に政権を取り、「本当の改革」後に政党が崩壊するという憂き目を見ることになるとしても、それはここ数年の政治的怠慢の報いを受けると言うことなのだ。

もし自民党が再び政権を取ることになるとすれば、郵政改革のような隔靴掻痒の問題ではなく、「本気の改革」に今度こそ取り組んでもらわなければならない。
そして次の政権を担うことになる人たちに、よりよい日本を作ってもらえるよう、バトンを託す責任がある。

次の政権こそ、本当の改革に着手する責任がある。「過去と心中」する覚悟で以て。
そして、過去と心中する政党が決まることで、その後に日本を再構築することになる政権の姿も見えてくることになるだろう。
刮目すべし・・・!

天下り

驚くべきことに、年配の公務員の中には、どうして天下りがいけないのか、本気で理解できない人がいるらしい。
自分のためではなく、業界全体のための奉公であって、これまでずっと続いてきた「伝統」を、どうして今になってこれほど批判されるのか、分からないといった様子である。
恐らくこの人達は、ウラヤマシイから批判するのだ、というくらいにしか理解できないのであろう。
「裸の王様」もここまで来ると噴飯ものである。

天下りの契機は、渋沢栄一に始まる。
といっても、渋沢の時代に現在の腐敗した天下りを連想することは難しい。

明治時代の日本は、西洋に習って近代化を急速に進める必要があった。
しかし、西洋の事情を知らない一般国民が、鉄道や銀行の必要があると考えるはずもない。
西欧のモデルをよく知る者が業界そのものを創始する必要があったのだ。
渋沢は銀行を設立し、紡績工場を立ち上げるなど、日本にそもそも存在しなかった産業を次々と立ち上げた。
モデルさえあれば民間もそれを真似することは難しくない。
こうして次々に民営の銀行が設立され、紡績工場が林立し、日本の産業を瞬く間に近代化させることに成功した。
 #民といっても華族の経営が多かったことは差し引かなければならないが、倒産が多く資産を失うケースも少なくなく、今の日本のように過保護なことはなかった。
渋沢は、自ら民の中に飛び込み、国造りに必要な新産業を生み出す創始者、つまりベンチャー的な役回りを果たしてきたのだ。
政府自身が国民に範をたれなければならない時代であったからこそ、渋沢のような人物が必要であった。
また、産業が立ち上がった後も、近代化したばかりでヨチヨチ歩きの日本の産業を増強するには、天下った官僚達が率先推挽する必要があった。
ここから、天下りは始まっていく。

しかし、今の日本の民間産業は、政府の能力を超えるほどに成長した。
トヨタなどの大企業は、国家レベルの規模を誇る経済力を持つに至った。
政府に手取り足取り面倒見てもらう必要は、もはやどこにもないのだ。
なのに、天下りの仕組みはそのまま残っている。
業界を創造・発展させるためではなく、既存の利益を「滞りなく」配分する役回りとして、である。
天下りは変質し、腐敗臭が漂うに至っている。
渋沢が自ら民間の中に身を投じ、産業を育成しようと粉骨砕身した清新さはもはや失われた。
単に、業界全体に利益を配分する「公平な(?)裁定者」として多額の給料をもらっているに過ぎない。
渋沢の創造性は失われ、賄賂性が高まっている。

官が国を先導しなければならない必要は失われたのだ。
それを自覚できないとするなら、その人は「裸の王様」そのものといわなければならない。
裸の王様は、これまで通り素晴らしい衣服を購入することで衣料業界を育成しているつもりであったのだろうが、目に見えず触れることもできない服を極上と偽って金をせしめる業者は詐欺師そのものであり、その詐欺師に国民のカネを渡す王様は、愚劣きわまることは誰の目にも明らかだろう。
しかし、次世代の子供から「王様はハダカだ」といわれるまでそのことに気付かないのだとしたら、もはや見識が疑われる。
せめて次世代から指摘を受けて恥ずかしくなった王様くらいの謙虚さは欲しいものだ。

作為的科学から帰依的科学へ

かつてキリスト教は、西欧を1000年にもわたって支配し続けました。そんなことが可能になったのは、ローマ帝国の腐敗を批判する清冽さ、弱き者をいたわる優しさ、貧しき者と分かち合う慈しみが、ローマ帝国の人々に新鮮に映り、次の時代の支配者としての期待を集めたからではないか、と思われます。
しかし1000年もの支配の間にキリスト教そのものに腐敗堕落が進み、人々から嫌悪感を持たれるようになりました。その結果、次の時代精神として人々の期待を集めるようになったのが、合理主義精神、科学的精神でした。ディドロなどの合理主義者たちは、「宗教は無知で迷信深い善良な人々をだまし、収奪してきた」と批判しました。そして人々に合理主義を薦め、正しい知識を身につけ、誰からもだまされない精神を身につければ、奪われるばかりの貧しい生活から抜け出せるのだ、そうした社会を作ることは可能なのだ、と称揚しました。人々はこのキリスト教のアンチテーゼとして登場した清新な時代精神、合理主義と科学的精神に魅力を感じ、やがてこれらの精神が世界を席巻し、現代へとつながっていくことになりました。

ところが近年になって、再びパラダイム変換(時代精神の変化)が起きつつあるように思われます。これまでの合理主義、科学的精神に傲慢さ、専横さ、横暴さが感じられるようになったためと思われます。
合理主義や科学に人々が疑問を持ち始めたのはおそらく、原爆が最初でしょう。原爆が登場するまでの科学は、迷信を打破する誠実で勇敢な「戦士」として好感を持たれていました。ところが原爆を境に「この人について行って本当に大丈夫だろうか?」という疑問符が生まれたのではないでしょうか。
水俣病の問題では、東大の権威が科学の皮をかぶって水銀原因説を葬ろうとするということがありました。これは、かつてキリスト教の僧侶たちが腐敗堕落したように、科学が権威主義、利益至上主義と結合して腐敗し始めたという印象を与える一典型の事件のように思われます。
以後、似たような事件は続きます。「夢の技術」と呼ばれてきたものが、後になって人々の健康を害することが判明したり、地球環境を悪化させたりなどの事実が次々と明るみになってきました。合理主義、科学的精神は今や、人々をミスリードする腐敗したパラダイムに堕してきたのではないか、という疑問が生じ始めてもおかしくありません。

ですが、私たちはこれからも科学的に、合理的に生きるより他ありません。私たちを取り巻く世界は、自然の法則に従って運行しています。科学的精神、合理主義的精神から逃れることは不可能です。では、何がこれまでダメだったのであり、何をこれから考えるべきなのでしょうか。
これまでの科学は、自然をねじ伏せ、人間に都合のよい世界を創造するという暴力的で作為的な精神を背骨にしてきました。「作為的科学」と呼ぶことができます。そうした「賢(さか)しらな科学」が作り上げてきた石油文明、機械文明は、地球温暖化オゾン層破壊、多くの生物の絶滅などを引き起こし、人類そのものの生存基盤さえ危うくするのではないか、という不安さえ感じさせるものになってしまいました。このような時代精神について行く気がしない、という反応が出るのは、当然のことのように思われます。

これからは、自然を痛めつけて人間の都合のよい現象をひねり出すというような思い上がった「作為的科学」、「賢しらな科学」ではなく、自然の摂理に従い、生物としての分をわきまえ、その中での幸福を見出していく「帰依的科学」、「謙虚な科学」でなければならなくなっているように思われます。

・・・教育の現場で、理科離れが深刻だといわれています。それにはいろいろな原因が考えられますが、原因の一つとして、科学に対する不信感、不安感が生じているためではないか、と思われてなりません。科学が人々の信頼を回復し、もう一度人々の幸福を誠実に希求する学問へと生まれ変わること、すなわち「帰依的科学」(=自然の摂理に従い、生物としての「分」をわきまえつつ人類の幸福を考える科学)を目指すことが、理科離れを防ぐ最初の第一歩になるのではないでしょうか。