作為的科学から帰依的科学へ

かつてキリスト教は、西欧を1000年にもわたって支配し続けました。そんなことが可能になったのは、ローマ帝国の腐敗を批判する清冽さ、弱き者をいたわる優しさ、貧しき者と分かち合う慈しみが、ローマ帝国の人々に新鮮に映り、次の時代の支配者としての期待を集めたからではないか、と思われます。
しかし1000年もの支配の間にキリスト教そのものに腐敗堕落が進み、人々から嫌悪感を持たれるようになりました。その結果、次の時代精神として人々の期待を集めるようになったのが、合理主義精神、科学的精神でした。ディドロなどの合理主義者たちは、「宗教は無知で迷信深い善良な人々をだまし、収奪してきた」と批判しました。そして人々に合理主義を薦め、正しい知識を身につけ、誰からもだまされない精神を身につければ、奪われるばかりの貧しい生活から抜け出せるのだ、そうした社会を作ることは可能なのだ、と称揚しました。人々はこのキリスト教のアンチテーゼとして登場した清新な時代精神、合理主義と科学的精神に魅力を感じ、やがてこれらの精神が世界を席巻し、現代へとつながっていくことになりました。

ところが近年になって、再びパラダイム変換(時代精神の変化)が起きつつあるように思われます。これまでの合理主義、科学的精神に傲慢さ、専横さ、横暴さが感じられるようになったためと思われます。
合理主義や科学に人々が疑問を持ち始めたのはおそらく、原爆が最初でしょう。原爆が登場するまでの科学は、迷信を打破する誠実で勇敢な「戦士」として好感を持たれていました。ところが原爆を境に「この人について行って本当に大丈夫だろうか?」という疑問符が生まれたのではないでしょうか。
水俣病の問題では、東大の権威が科学の皮をかぶって水銀原因説を葬ろうとするということがありました。これは、かつてキリスト教の僧侶たちが腐敗堕落したように、科学が権威主義、利益至上主義と結合して腐敗し始めたという印象を与える一典型の事件のように思われます。
以後、似たような事件は続きます。「夢の技術」と呼ばれてきたものが、後になって人々の健康を害することが判明したり、地球環境を悪化させたりなどの事実が次々と明るみになってきました。合理主義、科学的精神は今や、人々をミスリードする腐敗したパラダイムに堕してきたのではないか、という疑問が生じ始めてもおかしくありません。

ですが、私たちはこれからも科学的に、合理的に生きるより他ありません。私たちを取り巻く世界は、自然の法則に従って運行しています。科学的精神、合理主義的精神から逃れることは不可能です。では、何がこれまでダメだったのであり、何をこれから考えるべきなのでしょうか。
これまでの科学は、自然をねじ伏せ、人間に都合のよい世界を創造するという暴力的で作為的な精神を背骨にしてきました。「作為的科学」と呼ぶことができます。そうした「賢(さか)しらな科学」が作り上げてきた石油文明、機械文明は、地球温暖化オゾン層破壊、多くの生物の絶滅などを引き起こし、人類そのものの生存基盤さえ危うくするのではないか、という不安さえ感じさせるものになってしまいました。このような時代精神について行く気がしない、という反応が出るのは、当然のことのように思われます。

これからは、自然を痛めつけて人間の都合のよい現象をひねり出すというような思い上がった「作為的科学」、「賢しらな科学」ではなく、自然の摂理に従い、生物としての分をわきまえ、その中での幸福を見出していく「帰依的科学」、「謙虚な科学」でなければならなくなっているように思われます。

・・・教育の現場で、理科離れが深刻だといわれています。それにはいろいろな原因が考えられますが、原因の一つとして、科学に対する不信感、不安感が生じているためではないか、と思われてなりません。科学が人々の信頼を回復し、もう一度人々の幸福を誠実に希求する学問へと生まれ変わること、すなわち「帰依的科学」(=自然の摂理に従い、生物としての「分」をわきまえつつ人類の幸福を考える科学)を目指すことが、理科離れを防ぐ最初の第一歩になるのではないでしょうか。