格物致知

近頃の少年の事件を取り上げて、「他者の痛みを思いやる想像力の欠如」という言葉がよく聞かれます。
しかし、想像力だけで補えるものでしょうか?


先に紹介した「心機妙変を論ず」の文覚は、他者の痛みを思いやる想像力を十分持ち合わせた、怜悧な男であったように思われます。
彼になかったもの、それは、他者の痛みを想像したときに、身を引き裂かれるような思いを感じる、感性、感受性といったものではないでしょうか。


以前紹介した中国四書の一つ、「大学」の17文字を思い返してみてください。
「格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下」
(世界を平和にしたければ(平天下)、まず自分の国を治めなさい。
自分の国を治めたければ(治国)、まず自分の一族など、身のまわりの人を治めなさい。
身のまわりの人を治めたければ(斉家)、まず自分の身を修めなさい。
自分の身を修めたければ(修身)、まず自分の心を正しくしなさい。
自分の心を正しくしたければ(正心)、まず心の動きを素直なものにしなさい。
心の動きを素直にして(誠意)なお、問題が起きないようにしたければ、まず知識を徹底して身につけなさい。
知識を徹底して身につけたければ(致知)、まず森羅万象を体験的に理解しなさい(格物)。)


アタマで理解する前に行われなければならないこと、それが体験的な理解、「格物」です。
豊穣な体験的知見があってこそ、アタマでの理解が生きてきます。
知の体系を樹木になぞらえるなら、体験はその豊穣な大地です。
人を傷つけてはいけない、人を悲しませてはいけない、ということをリクツで理解していても、それを肉付けする感性が育っていなければ、ただのハリボテです。


文覚は、人が傷つき、悲しんでいることを理解しても、それを醒めた気持ちでしか受けとめられない、感性の欠如があったのではないか、と思うのです。
今の子供達には、想像力よりもさらに根底的な欠如、すなわち人を愛おしむ感性、慈しむ感受性を十分育てられなくなっているのではないか、それを恐れています。