暴僧・文覚

「北村透谷撰集」(岩波文庫、絶版)中の「心機妙変を論ず」という文章に、文覚という暴虐無人の暴僧が描かれています。
その僧侶は強盗・殺人・強姦など、悪逆の限りを尽くして平気でいる、恐るべき人物でした。
人が嘆き、苦しんでいても心に何のとがめも感じない、良心などあるのか、というような心胆の持ち主でした。


しかしその一方、彼は非常に聡明な男でした。
人を悲しませてはいけない、そう世の中で語られていることをよく知っていました。
人を傷つけてはいけないということも、よく承知していました。
ましてや、人を殺すことは最も許されないことだということも理解していました。
そうした罪を犯せば、生命を以て償わされるということも十分弁えていました。
しかしそうした「アタマでの理解」は、彼の行動の何の歯止めにもなりませんでした。
殺すなら殺せ、と呵々大笑するような人物でした。


彼は人が悲しんでいることをよく理解できましたが、心に痛痒を感じる感性を持っていませんでした。
人がうめき苦しむこともよく理解できましたが、それで心を苦しめる感性を持ち合わせていませんでした。
彼は想像力が欠如していたのでしょうか?
そうは思えません。
仮に自分が逆の立場におかれても、「ああ、オレは殺されるのか」と、大した感動もなく受け入れるのではないか、そんな気がします。


文覚は「心機妙変」を迎えるまで、他者を慈しむ心、他人の痛みを引き裂かれるような思いで受け止める感性、美しいものに心奪われ、いのちを愛おしむ感受性を持つことができませんでした。
なぜでしょうか。
彼はアタマで理解する明晰さは持っていても、心で受けとめる感受性を育てていなかったためではないでしょうか・・・?