意欲、愛情、厳格さ

今回の中教審の答申は、「あるべき姿」に追い立てようとしている感じがしてなりません。
追い立てる、追いつめるという行為は、大人も子供も関係なく、意欲を奪うものではないでしょうか。


確か「列子」にあった話だったと思います。


馬車好きの王様が、名人に馬術の奥義をすべて教えてくれ、と頼みました。
特訓の甲斐あって、「もう王様に教えることはありません」といわれたとき、「先生、では私と競争してみよう」と、意気軒昂にいいました。
そして勝負。王様は教えてもらった技術をすべて駆使して馬を御しましたが、結果は名人の完勝でした。
王様は不服そうに、「先生、まだ私に教えていないことがあるだろう!」と問いつめたところ、名人は次のように答えました。
「いえ、すべて教えました。ただ、王様は馬を速く走らせようとしました。私は速く走りやすいようにしたまでのことです。」


「あるべき姿」に囚われ、それに追い立てようとした王様。
その逆に、馬が本来持っている「速く走りたい」という気持ちを伸ばし、必要に応じて適切な技術を繰り出す名人。


追いつめたり追い立てたりすると、悪くすれば馬はふてくされて立ち止まるでしょう。
馬でさえそうなのに、人間の子供はいかばかりでしょうか。


もし王様が「速く走りたい」ということにばかり囚われず、馬に愛情を覚え、馬自身に走ることへの意欲を感じ取れる余裕があったら、名人から教えてもらった技術をどのタイミングで繰り出せばよいのか、分かったはずです。
どうも今回の答申は、「子供をしっかりしつける!」ということに前のめりになりすぎている感じがしてなりません。


意欲がなければ、何事も動きません。
愛情がなければ、意欲を引き出すことができません。
厳格さは、その二つを前提してはじめて、物事を達成するための方向付けとして機能するようになるのではないでしょうか。