愛?

今しばらく、中教審の答申を考えたく思います。
再び、「国を愛する心」への疑問。


「愛」という概念が難しくて分からない、というのが正直なところです。
日本が好きか、といわれれば私は好きだと答えます。
しかし日本を愛しているか、といわれると、どう答えればよいのか分かりません。
私はキリスト教徒ではありませんが、「愛」という概念をあまりに安直に使用しすぎているような気がします。


確か島崎俊樹という人の本に、以下のようなエピソードがありました。


子育てのみならず何事にもよく気がつくと評判の女性がおり、自分でも、内心愛情深い人間だと誇りに思っていました。
ある日、家族で外出したとき、列車がドアを開けたままなかなか発車しませんでした。
寒いから早く閉まってほしいのに、と思っていると、ホームとの隙間から、煙がモクモクと立ち上りはじめました。
驚いた彼女は、思わずホームに飛び出しました。
ハッと我に返ると、家族がホームにいない。
よく目を凝らして電車の中を見ると、煙の向こうに、二人の子供を両脇に抱えて冷静に状況を見極めようとしている夫の姿が見えました。
普段素っ気なく見えた夫のいざというときの行動と、普段何くれとなく子供に愛情を注いできた自分の今の行動のギャップ。
きっと、その女性は雷に打たれたように、ショックを受けたのでしょう。


もう一つ、これは私の身近にあった話。


近所に、一匹の猫を飼っている姉妹がいました。
お姉さんは、猫のご飯からトイレの砂まで世話を焼き、しょっちゅう猫を抱いていました。
妹はというと、めったにご飯もやらないし、そばに猫がいても撫でることもめったにしない。
猫への愛情の強さは端から見ても明らかでしたが、意外にも猫は妹の方になつきました。
お姉さんは「なんで?!」と怒っていました。


私も不思議に思ったのですが、観察していて理由が分かりました。
お姉さんは食べたくもないときに「さあお食べ」と餌の前に無理矢理運んだり、トイレをするとすぐ砂を変えたり、押入で寝ているのを引っ張り出して抱きしめたりしていました。
妹はというと、猫が撫でてほしそうなときにだけ撫でてやり、腹を空かしている様子の時にだけ餌をやっていました。

キリスト教が大切にしている愛というのは、どんな愛なのでしょう?
少なくとも、自己陶酔的な愛ではないと思います。
私はこんなにも愛している・・・というような。


高橋和己の「邪宗門」に、次のような言葉があったと記憶しています。
「私は常に、地球上の人類すべてに愛を注げ、と唱えてきた。しかし今、私は認めざるを得ない、自分の娘を愛さずして、どうして地球の裏側の人を心配することができるだろう?」


やはり、「格物致知・・・」なのではないでしょうか。
いきなり、国を愛することが出てくるのは、やはり何かおかしい。
違和感を感じずにはいられません。