青べか

再び「あるべき姿」批判。


荘子」に次のような話が載っています。


二人の旅人が今にも行き倒れになりそうなほど疲労困憊していると、渾沌が非常に親切にもてなしてくれた。
彫刻家でもある二人は感謝のしるしとして、
「渾沌には目、鼻、口、耳の7穴がない。お礼に我々が彫って差し上げよう」
さあできた、と思って見てみると、渾沌は息絶えていた。


「あるべき姿」にとらわれ、それに無理に当てはめようとすると、いのちは窒息してしまう。
それを教えてくれているような気がします。


山本周五郎の作品で、「青べか物語」というものがあります。
青べかと嘲侮を込めたあだ名の小舟は、ちっとも思うように進んでくれない。
こう漕げば普通こっちに進むだろ、という素直さが全くない。
腹が立つのも通り越して、「こいつは青べかなんだ」と諦めた途端、素直に進むようになった。


青べかをよくある船と同じ扱いをすると、全く使えない。
しかし青べかのクセ、言い換えると個性を認めて、それを受容し、前提してその可能性を引き出そうとしたら、どんどん出てくる。
「あるべき姿」にとらわれることをやめ、青べかそのものを素直に眺めたとき、青べかなりの良さにはじめて気付くことができたのでしょう。


老荘思想の大家である福永光司さんが、自分自身のエピソードを語っています。
通学路に大きくて、よくもまあここまで、と思われるほどひん曲がりにひん曲がった木があったそうです。
ある日、母親から「その木をまっすぐ見るにはどうしたらいい?」と謎を掛けられました。
福永少年は上下左右にいろいろな角度から眺めてみましたが、見事に曲がりくねったその木は、どうしてもまっすぐに見えるわけがありません。
とうとう降参して答えを尋ねると、次のような答えが返ってきたそうです。
「そのまま眺めればいい」


私たちはついつい、よそから持ってきた規矩(きく)で物事を眺めます。
「まっすぐとはこういうものだ」という「あるべき姿」に囚われるから、曲がりくねっているとしか思えません。
しかし「あるべき姿」に囚われずその木をそのまま素直に眺めたら・・・?
その木が醸す生命力、重み、深み、いろんなものが味わい深く感じられてくるはずです。
木を素直に見つめる・・・まっすぐに見る、というのはそういう謎かけだったのではないでしょうか。


「あるべき姿」というフィルターを通すと、見えなくなるものがたくさんあります。
子供は一人一人異なります。
そのまま眺める。
そうでなければ、渾沌と同じ運命をたどらないとも限りません。