国を愛する心?

中教審の答申では、「国を愛する心」というのが取り上げられたそうです。
理由は、どうやら公共の精神が軽んぜられている現状を憂うあまり、ということのようです。


しかし、私は首を傾げざるを得ません。
もし本当に公共の精神の源泉として愛国精神を考えているのなら、何か順序を間違っていると感じてならないのです。


以前にも紹介しましたが、いわゆる四書五経の一つ、「大学」は、以下の17文字に集約されるといいます。


「格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下」
これを逆から読むと分かりやすい。
「世界を平和にしたければ(平天下)、まず自分の国を治めなさい。
自分の国を治めたければ(治国)、まず自分の一族など、身のまわりの人を治めなさい。
身のまわりの人を治めたければ(斉家)、まず自分の身を修めなさい。
自分の身を修めたければ(修身)、まず自分の心を正しくしなさい。
自分の心を正しくしたければ(正心)、まず心の動きを素直なものにしなさい。
心の動きを素直にして(誠意)なお、問題が起きないようにしたければ、まず知識を徹底して身につけなさい。
知識を徹底して身につけたければ(致知)、まず森羅万象を体験的に理解しなさい(格物)。」


格物から始まって平天下までの7段階のうち、「国」が出てくるのは6番目です。
国というのは、それだけ大きくて、抽象的なものです。
自然を体験的に理解し、法則を知的に把握し、情動を意識化し、心を整え、行動を慎み、人々と良い関係を構築して、はじめてようやく「国」に至ります。
私はこの順序を、非常に妥当なものに感じますが、いきなり「国」が出てき、それが公共の精神と結びつけられると、唐突の感を拭えません。


孟子孫子韓非子も、いきなり国を唱えるようなことをしていません。
国を持ち出す前に、もっと強調すべき事柄がたくさんあることを、しっかり議論していただきたいと思います。