思い通りにならない「壁」

今の子供に欠けているものを二つあげるならば、「意欲」と「規範」でしょう。
中教審の答申でも、この二つを問題視しているのですが、読んでみると意欲をどうやったら生み出せるのか分からずに思考停止に陥った結果、全般に「規範」を重視する結果となってしまっています。


意欲については、先に送ったメールにも書いたように、子供がもともと学習意欲の固まりであり、それを見ていてくれる愛情深い大人がそばにいることが大事です。
いきなり規範を求めるような「大人扱い」を子供に求めるようなルソー以前に逆戻りをすべきでもありません。
そのことに気をつければ、基本的に意欲は失われるものではない、と思っています。


では、規範はどうして身につけさせるのか。
「あるべき姿」を子供に要求するのではなく、「厳然たるルール」があることを、子供がそれを犯したときに示す、それでよいのではないでしょうか。
モノが地面に向けて落下するように、やってはならないことをすると必ずお仕置きが待っている。
何をして大丈夫で、何をしたらいけないのか、物理現象と同じくらいに確実で分かりやすい一貫したルールを、大人がしっかり示すことだと思います。
子供はそうして、やっていいこと、悪いことを学んでいきます。


「他の人に叱られるよ、静かにしなさい」と、電車の中などで子供を注意する大人がこのところ目に付きますが、これはよくない例です。
「叱られなければ構わない」という曖昧なルールになってしまいます。
他の人が実力行使に出ずとも、度を過ぎたならばビシッと親である自分が叱ることが大事です。
他者という変動ルールを持ち出してはいけません(「虞美人草」の母親のように)。
社会がどう裁くかではなく、自分自身が厳然たるルールを体現しなければならないように思います。

私自身がまだ幼い頃に聞いた父の言葉があります。
「人を殺したら、自分も死になさい。死に切れなければ、ワシが手伝ってやろう。」
父は「これをやったらお仕置き」と宣言したら、必ずその通りにしてきました。
そのおかげか、私は人を殺したいなどと思ったことがありません。
警察が見逃してくれても父は地の果てまで追いかけてくるだろう、と、幼心に心底信じたためでしょう。

ただし、「厳然たるルール」には、自由という「あそび」の空間があります。
スポーツのように、ルールははっきり存在しているけれども、どうプレーするかは自由。
「あるべき姿」という型枠と「厳然たるルール」とは、似ているようで違います。
腕白だが程度を心得ている、という子供がいてもいいという余裕のある方が、良いように思われませんか?

「あなたの存在を無条件に愛する」という母性的な存在と、「社会がどうあろうとやってはいけないことをやったら地の果てまでも追いかけて罰する」という父性的な存在。
そのどちらかの役割を、両親が分担しなければならないように思います。


中教審の方々には、「あるべき姿」を想定していると誤解を与えるような表現に、もっと気を遣っていただきたいと思います。