子供という別の存在

ルソーの「エミール」はあまり評価できないのですが、西欧において、非常に重要なメッセージを送った功績は、否定しようのないものです。
それは、よく知られているように「子供の発見」です。


それまでの西欧では、子供は「小さな大人」と見なされがちだった、といいます。
人としてあるべき姿を幼い頃から厳格に求められ、子供にありがちな無邪気さは、愛されるどころか忌み嫌われる傾向が強かったようです(もちろんモンテーニュやアルベルティのような異なる例もありますが)。


それをルソーは「エミール」を世に出すことにより、子供は大人とは異なる存在であること、子供には大人とは異なる接し方、扱い方をしなければならないということを示しました。
これは西欧では、画期的な視点でした。
以後、子供の頃から大人に求めるような厳格さで臨むより、愛情を注いだ方がよい、という教育論に徐々に転換していくことになりました。


開国後間もない日本を見た西欧人が、「教育学の発展もなしに」子供に無条件の愛情を注いでいる日本人を見て、驚いているレポートがたくさんあります。
子供は大人とは異なる存在であり、子供ならではの接し方が必要なのだ、ということを日本人は先天的に知っている、素晴らしい!と。


しかし中教審の答申は、子供に対して大人としての接し方をしようという、古来日本になかった教育を施そうとしている観があります。
子供と大人の垣根を取り払い、「小さな大人」として扱う、という宣言に見えるのです。
私は、これに非常に危ういものを感じてなりません。