生きることは泥臭い

知的な人が、引きこもりになるケースが非常に増えている。
彼らの悩みは非常に深いのだが、そのきっかけになった問題は些細と思われることが多い。
彼らは自分の苦悩を非常に深く鋭く分析しているが、自分の行動をほんの少し、変えてみる勇気がもてない。

彼らに共通して見えるのは、生きる力に乏しいことだ。
生きていくためには、働くこと、生活すること、人と交わることが必要である。

働くということでは、どれだけ有名な大学を出たとしても、社会人に成り立ての時は泥臭いこことから始めなければならない。
「こんなことをするためにXX学部を出たのではない」といきり立ったとしても、客に頭を下げられないつまらないプライドは何の役にも立たない。

生活するということでは、献立一つ考えることも実に面倒なものである。
食事をすれば洗い物が毎日必ず出てきて、それを済ませても誰もほめてくれるわけでも認めてくれるわけでもない。
くだらなく見えるその日常を重ねて、生活は成り立っている。

人と交わるということでは、街角の清掃でも、ゴミ出しでも、「家族」を地域の中で成立させるには、本来不可欠なものである。
近所づきあいもなく、誰とも会話せずにいて、家族を支える環境づくりができるはずもない。

ところが、どうしたわけか彼らはそうした経験が非常に乏しい、あるいは考え方が少々現実離れしている。
世の中は思い通りにならないことだらけである。
思い通りにならない中で、辛抱強く自分の求めるものを求めていくものである。
思い通りにならないからといってあっさりあきらめたり、目を背けるのでは問題は解決しない。

生きることは泥臭い。
教育する上でも、このことを前提とすることを忘れてはいけないのではないか。